その犬はずいぶん長い間わたしの後ろを歩いてきていた。
 風力発電の羽がくるくると回っているのを尻目にわたしは工場の間を歩いていっていた。防波堤の向こうに白と朱に塗り分けられた煙突がいくつも伸びているのが見えて、そこからは真っ白い煙が入道雲のように勢いよく吹き上がっていた。けれども今はつめたい冬で、それらの風景はみんな少し青みがかって薄暈けて見えていたので、なにか深い静けさの印象をわたしに与えた。
 立ち止まって振り返ると犬はまだついてくる。白い毛の薄汚れた犬だ。その犬は真面目な顔をして、私を見ているのか見てないのかわからないけれどまっすぐ歩いてきた。鼻がピンク色をしている。まるで自分にもいくべき場所があり、たまたまわたしと進行方向が同じであっただけといったような風で、わたしを追い越していく。
 犬がわたしを通り過ぎるころを見計らって再び歩き出す。名前はわからないけれど周囲の工場の敷地にもその外にも背の低い木がいくつも茂っていて、アスファルトはあまり通るものがないからかひび割れている。道幅は広く人気はまるで無い。ときおり車が通っていく。散歩には向かない場所だった。
 車のガソリンがなくなってしまったという簡単な理由でこの工業地帯を犬と歩くはめになっている。車のガソリンがなくなるまで走りたかった理由はべつにあり、それは失恋というごくありふれたものだった。しかしごくありふれたと自分で注釈をつけてみてもいたんだ心が平らになるわけではなかった。
 犬の爪のチャッチャと擦れる音がする。こいつはいったいどこにいくのだろう。わたしより数歩先をゆくその犬の背を見ると骨が浮いていてだいぶやせている。ふいに感傷的になり、発作的に涙がこみあげてくる。どのような理由もなくこのごろのわたしのこころはあふれてしまう。涙が目のふちをぬらして静かにながれてくるのを拭いながら鼻をすすり、歩いた。
 ガソリンスタンドに行かなければならないのだけれど、この工業地帯は広く、茫漠としていて、白い犬の足音だけがした。海は間近だったのに、あまり波の音はしなかった。浜がない港だからなのかもしれない。なぜなのかはわたしにはわからなかった。