本を読まない人が多すぎると思う

本はバカでも読める。意味がわからなくても、文字を読むことはできる。難しくて、つまらなくても、とりあえず読んでみることはできる。本が読めないという人は、それすらしない人なのだと思う。

本の話になって「川端康成が好き」というと、まるですごい読書家であるように言われる。私は読書家でもないし、ときどき読んでいる程度だ。高校生のときは毎日読んでいたけれど、今は読書好きというほどでもない。

テレビで「ムラカミ春樹を読んでいると賢い感じがする」みたいにいわれているし、川端康成を好きというだけで、頭がいいねみたいに言われる、なんかそういう風潮がすごくいやだと思う。個人的に村上春樹を文学と思ってない(友達と、あれは文学を読みたい消費者のニーズを叶えるための「ブンガク」であると話していた)からというのもあるけれど、そもそも、バカでも読める本というものを、はなから読む気のない人が多すぎるということに嫌な気持ちになる。

本を読むことは、やっぱり大事だと思う。悩んでいて「どうしてなんだろう?」の袋小路で止まってしまっているとき、自分と同じような落ちこぼれの人が、悩みぬいて書いた本を読めば、そこには答えとまではいかないけれど、ある人の切実な悩みの痕跡が残っていて、私はそれに勇気付けられた。
聖アントワヌの誘惑のように、自分に苦い思いをさせる本もあった。山月記なんかもそうだ。でも、その本を読んだことで、自分の厚顔を、エゴを恥じる大切さを知ることが出来た。

自由な、指針のない時代で、私は毎日自分が不安でしかたなくて、自分がわからなくて怖い。本を読むと、その自分を知る手がかりを感じる。本は対話だけれど、普通に日々生きていて人と話すこととは全然違うのだ。著者が魂を削って書いた心を、受け取る対話だ。私はそれに感動したり、戦いたり、いらだったり、慰められたりする。とても大切なことだと思う。
でもそういう人生に響く経験は、言っちゃ悪いけれど、ちまたで売ってる娯楽小説では絶対に得られないと思う。昔から読み継がれてきた名作の中にしかないと思う。誰でも名前と筋を知っているような人の、名作。それをもっと人は読むべきだと思う。

超訳ニーチェがすごく売れたが、あんなのを読んだって対話になりやしないと思う。ニーチェの読みづらさ、難しさに何度もぶつかってつまんねーと投げ出して、また読んで、むり、こいつ頭おかしいだろ、みたいなのを繰り返すことに意味があるんじゃないかと私は思う。
それが結局読めなかったとしても、きっと、出会いだし、対話なんだと思う。難しいことを話している人のことを理解したいと思ったら、ちゃんと調べて、ちゃんと考えてみればいい。難しすぎるなら、わかりそうなものからはじめていけばいい。人付き合いと同じだ。でも、賢人の言葉には人生を明るくする灯明のような知性の光がある。その恩恵にあずかりたいと、こんな真っ暗な時代で、不安な自分を抱えて思わないのだろうか??

読書を勉強に置き換えたっていい。へんな解説本とか、一気読みであらすじだけ教えてくれる本ばっかり読む人は、勉強する手間を惜しんで、まるで詐欺みたいな「頭のよくなる機械」を買ってるように見える。資本主義は、知性まで金で買えると思わせるのだろうか。なんでもお手軽だ。なんでも簡単だ。

感情や心まで、簡単になっていっているように見える。抜け殻みたいに見える。わたしが悲観しすぎなんだろうか。だけど、本人が「深い」つもりでいながら、驚くほどアニメ的で、複雑さのない印象を受けることを言う人が多い。私だってべつに自分が深いとかは思わない。けど、感情があんまりにも簡単で、何かに対する答えや決着のつけかたも単純で横暴で想像力がなく思いやりに欠け、そんなんでいいのかよ、ってすごく疑問に思う。あといらっとする。そういう人に限って、私が川端康成とかを読んでいると、皮肉みたいなことを言ったり、自分は本が読めないとかいってくる。そのくせ、自分を振り返ることもしない。
本を読むのなんかバカでもできるんですが、と思う。私はバカでも読めたし、難しい言葉にうんうん唸りながらそれでも読んだから本が楽しいのだ。それだけのことなのになんなんだと思う。

ある耽美な作品をつくる人の引用が京極夏彦だった。私は脱力した。京極夏彦は「耽美で大正ロマンっぽくてあやしげでちょっと怖くて厚い本」というニーズを充たす本であると思う。だから彼の作品は正式な文学として扱われない。商品なのだ。芸術ではない。ファンの人は怒るかもしれないけれど私はそう思ってる。

うまくいえないけれど商品と芸術は絶対に違う。商品はカテゴライズでき、消費でき、対話を生まない。生の心がない。ドラマと同じで、起伏はあるが、それは本当ではない。あくまで需要と供給だから、それを読むことで心に何か傷を負うことがない。文学は創作だが、感情の芯を表現することにおいて嘘や虚飾はないし、そういったものがある作品は娯楽なので後世までは残らない。芸術と呼ばれるもののなかには、現実よりも鋭く研ぎ澄まされている本質がある。それを読むことが、生きることの芯になる。と思う。

何もかもが需要と供給に飲み込まれていき、対話がどんどん死んでいく。心のふれあいがなくなっていく。
超訳ニーチェが、ニーチェを読むきっかけになるならいいと思うけれど、多分読む人は超訳どまりなのだ。超訳だ。訳じゃない。そこにニーチェのいいたかったことがどれほど入っているかなんて、想像すればわかるのではないか?

勉強のできない子供は「勉強の仕方がわからない」という。私もそういうくちだったからわかる。そういう人は、とりあえずやってみればいい。「本が読めない」というのは、勉強をろくにせずに「勉強ができない」といっているだけだ。私もはじめ、本を読むのは楽しいことではなかった。だけど、読んでいくうちにどんどん楽しくなった。別に見栄だってなんだっていいと思う。まず読んでみる。それをするだけで人生がちょっとだけ変わると思う。付け焼刃の表面的な知識をひけらかせるようになるだけでもいいじゃないか。読んだ、のだから。読みもしないよりえらいと思う。まあ糧にはなってないけれど、本が読めれば、いつか本が必要になったときに、本を手に取れると思う。それだけでも良いことだと思う。

でもひとつ疑問なのは、どうしてこんな悩みの多い時代でみんなが本を読みたくならないのかということだ。みんなろくに悩んでもいないし考えてもいないのだろうか。自分の悩みに責任をもって向き合わず、自分をみつめず、その結果人を食い物にするのだろうか。弱肉強食。そんなのは畜生みたいでいやだ。

人間は文字を読めて考えることができて悩む生き物だから人間なのではないのかと思う。といって、聖人にはなれない、賢人にはなれない、ただの凡人である。色んな間違いや不安やおそれがある。そして傷つけたり、傷つけられたりする。憎んだりする。そんなどうしようもない苦しさを、どうにかするには、自分よりももっと苦しんだえらい人の言葉を読んで考えることが大事なのではないだろうか。そうすることで、やっと自分の中の暴力性をおさえ、人を思いやったり、自分を愛したりする脳みそが作られていくのではないだろうか?