フェリーニ「道」

ザンパノと、ジェルソミーナ

きちがい天使

かみさまがいるところは、そら

この映画を見た後はいつも言いようのない気持ちになって感想どころではなくなってしまうけれど、書いてみようと思います。

「道」のなかで、ザンパノは相当にクズな男に描かれているけれども、人はだれしも彼に似ているところを持っているのだと思います。だからこそ、彼がラストシーンで海辺に伏すとき、私たちは胸を締め付けられる。それは殆ど誰もが必ず経験したことのある、「罪を犯した」「誰かを傷つけた」「取り返しのつかない」痛みを思い出させるからです。

「卑怯」、「狡猾」、「臆病」、「マヌケ」、「だらしない」、「残酷な」、「みじめな」。こういった形容詞からすっかり逃れられる人間は、そういないと思います(私は存在しないと思います)。それはつまり、ある種の罪、まちがいを犯すことから逃れることのできる「正しい」人間が、ほとんど存在しないということを示しています。

ジェルソミーナは知恵遅れということもあり、「純粋」であることから逃れられないつくりのキャラクターですが、ザンパノとのやりとりによって際立つ彼女の純粋さというのは、決して完全なものでも、聖なるものでもありません。あくまで「人間」の持つ、すごく脆弱な純粋さ、そして愛なのです。
彼女はたびたびザンパノの行動に傷つき、悲憤しますし、彼から離れようとします。別に「彼を助けてあげなくちゃ、彼を愛してるの!」なんてことは思っていないのです。でも、彼女は彼女なりに、ザンパノの傍にいてやります。それも、頭が弱いからという部分があると思います。
逃げ出してしまったジェルソミーナを見つけたときのザンパノの安堵の表情が、人のぬくもりを求めずにはいられない彼の孤独な心をよくあらわしています。ザンパノは粗野で、いかにも強そうな見た目をし、平気で人を傷つけます。しかし、人を傷つけるということは、「人を傷つける自分」を知ってしまうということですから、彼は決して自分を良い人間だと感じることはできないでしょう。だからこそ、そのようなクズである自分を受け容れてしまうジェルソミーナの純粋さ、頭の悪さ、そして弱さに、ある意味ではすがっていたのではないでしょうか。その意味では、ザンパノも絶望的なほどの弱さを抱えた人なのです。(私はその痛みを感じる心がある限り、人間は人間であると思います。)

ジェルソミーナとザンパノのコンビに対して、イルマットの存在というのは、また特別なものです。彼の登場シーンに象徴されるように、単にザンパノの対照としてだけではなく、ジェルソミーナとザンパノという二者の「人間」の対照としての「天使」の役割の担う存在なのだと思います。

イルマットは自分に価値がないといって悲しむジェルソミーナに石ころを拾って見せ、「どんなものでも役にたたないものはない、こんな石ころにも意味はあるのだ」ということを教えます。その石ころとは、ザンパノであり、ジェルソミーナであり、イルマットであり、私たち観客のことでもあります。だから彼の言葉は胸を打ちます。
彼はザンパノをしばしばおちょくり、ばかにしますが、その行為のなかに悪意はあまり感じられません。その理由は、おそらく、すべての人が神に接吻されていることを、心の何処かで彼が知っているからなのかもしれません。

しかし、イルマットは、神の教えを説く天使の役割を担う存在ではありますが、やはりまた完全な存在ではありませんでした。彼の教えに元気付けられたジェルソミーナも、結局はその後ザンパノの転落に引きずり込まれてしまいます。ジェルソミーナは、憎しみと罪悪にとりつかれたザンパノに「どんなものにも意味があるのだ」ということを教えられるほどの力を持っていません。そしてイルマットは殺され、それを目の当たりにしたジェルソミーナは正気をうしなってしまいます。

取り返しのつかない罪を背負ってしまったザンパノは、その罪から逃れるようにジェルソミーナを残して一人立ち去ります。それが彼に出来る唯一の愛の表現だったのでしょう。
彼はそもそも、恋愛以前の愛に飢えている人間であったと思います。人のぬくもりすら知らない男。その男が、かたちはどうあれ、ある種のひたむきな温度を知ってしまったとなれば、その後の孤独はどれほど深いものになったのでしょうか。時がたち、ジェルソミーナが死んだことを知った後、彼は本当の絶望を知ります。夜の海辺でひとりむせび泣くあわれな彼の姿を見て、私はなきたくなります。どうして、人は人を傷つけてしまうのか。どうして、うまく人を愛せないのか。むなしい問いかけが浮かんできます。

それでもこの映画が美しいのは、ザンパノはあくまで人間の「道」から外れていなかったからではないかと私は思います。どこまでも極悪非道なふるまいをした男でしたが、彼は罪悪感から逃れることが結局は出来ませんでした。文章の中ほどでも書きましたが、それはすなわち、彼が良心の深い傷を知っている人間だということであり、体中が罪を被って真っ黒に汚れていたとしても、神のもとにある人間だということを示しているのではないでしょうか。

ところで、私はルオーの絵が好きです。ルオーの絵にはピエロを描いたものが多くあります。化粧をして笑っている顔ではなくて、ただの不機嫌な男がこちらを睨んでいる絵もあります。タイトルがなければピエロだとはわからないかもしれません。描かれているのは、ピエロを仕事にしているらしきただのおっさんです。
そこには、ピエロを演じるとある男の孤独と悲哀があらわれています。それはわかりやすい、大げさな悲劇やあわれさとして表現されているのではありません。誰も見ていない、ひとりでいるときの人間の表情というのが、すなわち惨めで、マヌケで、意地悪く、あわれなのです。だから私たちは、その絵を見たときに、なんともいえない深いかなしみを感じるのです。
多分、ありのまま、裸になったときに、優れている人間などいません。ひとりでいるとき鼻くそをほじったり、嫌な人にむかついたりするじゃないですか。そういうもんです。ですが、逆に言えば、それこそが人間というものなのです。そして、そういう孤独な人間の一瞬を描写した絵によって、裸の人間の存在を許す神のまなざしが間接的にあらわされます。

同じような「まなざし」を、わたしはこの映画のカメラにも感じます。どこまでも罪を犯し、どこまでも弱く愚かで、どこまでも取るに足らない人間たちを、神のまなざし(=カメラ)はじっと見つめています。人が「罪」を知っている限り、そのまなざしは人間を見放すことはないような気がします。

私はキリスト教徒ではありませんが、「道」という映画はいつも、ルオーの絵画に通じる「神のまなざし」を感じ、心打たれます。そしてなにより、そういったいいようのないまなざしを、人間の孤独を通して映し出す作品の素晴らしさを思います。このような作品が受け継がれる限り、人は決して、本当の意味ではひとりぼっちではないのではないかと思います。