ウルフ・オブ・ウォールストリート」を見た。ディカプリオの演技はやっぱりいいなあと思った。
ゲッコーの再来と劇中で言われてるとおり、いかれたベルフォートの半生を描いていた。

私の知ってる男でベルフォートのようなのに憧れていたやつがいたけど、たぶんあの映画を見てテンションが上がるんだろうなと思った。でも金持ちじゃない。そういうクソみたいなヤツばっかりだ。

サイコパス的な価値観の人間というのはやはりどこにでもいて、金と女と食い物と、とにかく欲求が充たされることだけを念頭において生きている人達である。私はそういう価値観をうまく理解出来ないけれど、軽蔑することも下品だと思うこともできない。自分が十億円くらいの金を「どうぞ」と目の前に置かれ、理想どおりの豪邸をプレゼントされたら、固辞するのかどうかわからない。だから、サイコパス的、動物的といくら言ったところで、私にとっては全否定できない価値観なのである。金を稼いで女と寝て、愛がなくたってそれが出来れば男としたら、動物としたら、万々歳ではないかとも思う。

捜査官が眺める地下鉄の乗客や、ラストシーンでぽかんとベルフォートを眺める人たちの顔はなんとも間抜けで、そちらがわの人間としてはすこし複雑な気持ちにもなる。
彼女と彼に嫌なことをされてから、幸福とはなんだろうかと考えることが多くなった。
軽薄でうわべだけであっても欲望を充たせるのならそれも幸せと呼べるのではないかなどと考えるようになった。勿論わたしにとっては、その価値観を乗り越えて自分の中に確固たる幸福の指針をつくりたいからなのだけれど、資本主義のりくつを自分ひとりの頭で乗り越えるのは難しいなといつも思う。

でも、映画をみてて思ったんだけど、たぶん、欲望を貪り続ける生き方が天分である人というのはそんなにいないのだと思う。だいたいの人の天分というのは普通の範疇に納まるもので、人は、自分の天分(適性?)と違うことをすれば辛いし、続けられない。欲望のゲームに没頭して続けてしまって、しかも後戻りもできないくらい成功してしまっているという時点で、もう、道を間違えてるとかそういうんじゃなく、単純に根っから「そういう人」なんじゃないかなって思った。すべてを手に入れて、すべてを手に入れていなくて、幸福で、不幸な運命が課せられている人。そう感じられたのはなんとなく収穫であったと思う。ディカプリオの全編とおしての壊れっぷりが説得力を出していたのかもしれない。

ベルフォートのよいところ(?)は、口ばかりじゃなくてちゃんと人を騙すし、金を持ってくるし、全部やりつくしてることだなあとしみじみ思う。なまじ、近くにそれに憧れ肯定しながら口先ばかりの人を見たので、やるならやったほうがかっこいいと思った。「そういう人」なのだ。それに、ゴミみたいな株を買ったり、セミナーに来てベルフォートを拝んでいる人たちは、結局は潜在的な部分で彼に搾取され、操作されたくてやってきているのではないかと思う。彼らの、どこかで人任せにして利益を得たいというくだらない下心が、結局ベルフォートの餌になって、彼の懐はそれによって肥えふとっているのだ。もしかしたら、この悪夢みたいなサイクルのなかでは、誰もが大して傷ついていないのかもしれない。

彼のかっこよさはおそらく付け焼刃でうわべばかりのものなので、ものすごい惨めさとダサさ情けなさと紙一重のあやういものなのだが、やはり映画になるほど魅力的ではあるし、「付け焼刃だから」「軽薄で最低だから」価値がないと言いきることはどうしても出来ない。他のいろいろな映画と同じように、やはりベルフォートも天分を存分に生きた人間ではあるのではないか。ただその天分が「最低な人」である人もいるということなんじゃないか、と思ったしだい。


そういえば前、似たようなので「華麗なるギャツビー」も期待して劇場で観たんだけれど、あっちは私全然だめで途中退席してしまった。お祭り騒ぎが撮りたかっただけみたいに見えたし、原作のギャツビーのイノセントさが好きだったから、その詩情があまり出てないところが嫌だった。滑稽とピュアは似て非なるものだと思うのだが、あの映画のなかのギャツビーはどちらかというと滑稽だった。(多分ディカプリオは製作者の意図を汲んだ演技をしていて、その演技はよかった)

ウルフ・オブ・ウォールストリートの虚栄はまさに純粋な金目当ての虚栄であるけれども、ギャツビーの虚栄というのは、禍々しくもありながら根っこでは非常にピュアな思いからはじまっているものである。それがたとえへんな思い込みや勘違いだったとしてもだ。まあ、ベルフォートの「金と女と名誉」が、「特定の女」にすりかわっただけともいえるのだけれど、その「特定の女」であることが重要であって、それだけで、ギャツビーの話はある種のラブストーリーと呼んでいいものになっていると思うのだ。
ギャツビーは相手のことをろくすっぽ考えてないし、相手の女は女で金という砂糖に守られた愛しかしらないから、なんともむなしいわけではあるのだけれど、主人公(名前忘れた)がギャツビーを「グレイト・ギャツビー」と呼ぶゆえんは、そのほかの全てが汚れきっていたとしても、彼のいちばん根本にある恋心の純粋さだけは本物だったのではないか、というところにある。もう、その、ひとかけらの、しかもどこかボタンを掛け違えた純粋さのために全部が壊れてしまう、はかない美しさ。そこにアメリカのイノセンスがあると思う。
もっとそういうはかなさが出たらいいのに、毛色としてはウルフ・オブ・ウォールストリートとあまり変わらない印象を受け、虚栄・繁栄→衰退、という流ればかりが目についてしまった。あと、主人公が原作ではもっとクールでニヒルな感じで、どこか少し大人な立場からギャツビーを見守っていたのに、この映画ではたんに金持ちのギャツビーに感心してる人みたいな感じだったのも嫌だった。
原作本を読んだあとの言いようのない切なさと愛おしさが映画のあとにでてこないような気がした。まあさいごまで見なかったからなんともいえないか。